サダコと原爆(げんばく)
3 サダコさん小学生に
1949(昭和24)年~1954(昭和29)年
サダコさんは被爆(ひばく)したものの、すこやかに成長しました。
小学校に入学してからも病気でやすんだことなどありません。
弟や妹の世話をよくするやさしいお姉さんでした。
歌とスポーツが大好きで、特に走ることではクラスのだれにもまけませんでした。
平和なくらしがもどってきた。
戦争が終わりました。「75年間は草木もはえないだろう」といわれた広島にも、すこしずつ建物がたち、人がもどってきました。サダコさんの一家も、ふたたび広島の中心部で理はつ店を開くことになりました。
やがて妹の美津江(みつえ)さんがたん生し、サダコさんが幟町(のぼりまち)小学校に入学したよく年には、弟の英二さんも生まれて、家族は6人になりました。理はつ店の仕事でいそがしいお父さん、お母さんのかわりに、弟妹のせわやそうじをするのは、サダコさんとお兄さんです。このころの子どもたちはよく家の仕事をてつだっていました。家族みんなが助け合ってくらしていました。
クラスがひとつになってリレーでゆう勝!
サダコさんはクラスでもずばぬけて運動のできる少女でした。
6年生のとき、春の運動会のリレーで、サダコさんたちの竹組はバトンタッチに失敗して学年で最下位になってしまいました。そこで、毎日放課後、みんなでリレーの練習をすることになりました。そのなかで光っていたのがサダコさんです。スピードじまんの男子もかないません。
練習のかいあって、秋の運動会では、竹組はあっとうてきな強さでゆう勝!