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サダコと原爆(げんばく)
もっと知りたい

よみがえる広島

ふっこうのはじまり

広島に原爆(げんばく)が投下されてから10日もたたないうちに、戦争が終わりました。原爆(げんばく)によってかいめつした広島でも、電気や交通機関などがふっきゅうするにつれて、人々は焼け残った材料で住たくを再建したりして、生活を建て直しはじめました。やがて、そ開していて助かった人や兵隊に行っていた人たちが帰ってきて、広島は、ふっこうにむけて動きはじめたのでした。

バラックでくらす子どもたち

板やトタンで屋根とかべをつくっただけのそまつな住たくで、食べるものにも着るものにも不自由な生活でしたが、空しゅうの心配がなくゆっくりねむられて自由に遊べる生活に、子どもたちは元気をとりもどしていきました。
1946(昭和21)年2月ごろ
さつえい:スティーブン・ケレン
ていきょう:広島市公文書館

こどもたちの戦後

教室も教科書も十分にないけど、学校がはじまった。

学童そ開していた子どもたちも広島に帰ってきました。広島市内の学校も、原爆(げんばく)で焼けてしまったり、原爆(げんばく)ひさい者のきゅうご所やしゅうよう所として使われていたりして、子どもたちが校しゃで勉強できる学校は、4分の1くらいしかしかありませんでした。
それでも、ほかの建物を借りてじゅ業をしたり、校庭のガレキをかたづけて「青空教室」を開いたりして、少しずつ勉強できるかんきょうがととのっていきました。

青空教室

1946(昭和21)年4月、新学期がはじまったころの幟町(のぼりまち)国民学校のじゅ業。

さつえい:スティーブン・ケレン
ていきょう:広島市公文書館

「原爆(げんばく)こ児」原爆(げんばく)で家族をなくした「原爆(げんばく)こ児」は2000人から6500人といわれ、戦さい児育成所などに入ってくらすことになりました。しかし、子どもたちの中にはいろいろな理由からふろう者となり、くつみがきなどをして自分で働きながら生きていく子どももいました。

いれい式に出席した原爆(げんばく)こ児たち
(広島市似島(にのしま))

1946(昭和21)年11月
さつえい:スティーブン・ケレン
出典:"I REMEMBER HIROSHIMA" Hale & Iremonger社刊(1983年)

かく兵器の開発

「冷たい戦争(冷戦)」──アメリカとソ連の対立

第二次世界大戦がおわってまもなく、「実さいにぶ器をとり戦う戦争」(熱い戦争)に対して、「ぶ器はつかわないが、きびしく対立しあっている」という意味で、「冷戦」(冷たい戦争)という言葉が、さかんに使われるようになりました。対立の主役になったのはアメリカとソビエト連ぽう(以下「ソ連」)です。二つの国は、それぞれ相手の国よりも強力なぶ器を持とうと、かく兵器を強力にし、数をふやす競争をしました。また、1952(昭和27)年にはイギリス、1960(昭和35)年にはフランス、1964(昭和39)年には中国が原爆(げんばく)を持つようになりました。

水ばく実験でヒバクシャが出た。

ソ連が1949(昭和24)年、原子爆弾(げんしばくだん)の実験に成功しました。これに対してアメリカは、原子爆弾(げんしばくだん)よりもさらに力の強い水素ばくだん(水ばく)の開発に取り組みました。そして、1952(昭和27)年、し上初めての水ばく実験を南太平洋で成功させました。1954(昭和29)年、太平洋のビキニかんしょうで、アメリカが水ばく実験を行ったとき、近くで漁をしていた日本の漁船「第五福竜丸(ふくりゅうまる)」が放射線(ほうしゃせん)を受けるという事けんが起こりました。日本に帰ると、船に乗っていた人たちは体の具合が悪くなって入院し、そのうちのひとりはなくなりました。原爆(げんばく)のおそろしさを知っていた日本の人たちですが、かく実験でもひ害者がでることを知って大きなショックを受けました。

アメリカによるし上初の水ばく実験

水ばくは、原爆(げんばく)がばく発するときの高温と高あつを利用してかくゆう合反のうをおこさせるものです。この水ばくのい力は、約10メガトンてい度(広島に落とされた原爆(げんばく)の700倍くらい)にたっしました。

太平洋マーシャルしょ島
1952(昭和27)年11月