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サダコと原爆(げんばく)
もっと知りたい

後障害(こうしょうがい)について

終わらない被爆(ひばく)のえいきょう

原爆(げんばく)によって人の体が受けたえいきょうは、「急性しょう害」と「後障害(こうしょうがい)の2つに大きく分けることができます。

人体が受けたえいきょう

急性しょう害は被爆(ひばく)直後からあらわれたしょうじょうで、熱線・火災、ばく風、放射線(ほうしゃせん)によって引き起こされ、4~5カ月でおさまりました。
急性しょう害がおさまった後にも、原爆(げんばく)ひ害のえいきょうは続きました。これが後しょう害とよばれるもので、ケロイド(やけどがなおったあとがもり上がったもの)、白血病などの病気がみうけられました。
白血病になる人は被爆(ひばく)から2~3年で始まり、7〜8年後にピークにたっしました。5〜10年たったころからは、こうじょうせんガン、にゅうガン、はいガンなど、いろいろなガンになる人が多くなってきています。
また、 お母さんのおなかの中で被爆(ひばく)した赤ちゃんは、死んで生まれたり、無事に生まれても「小頭症(しょうとうしょう)」とよばれるしょうじょうをしめす人もいました。

せ中や両うでがケロイドになった女せい

ケロイドや皮ふのひきつれは、ひばく者を心身ともに苦しめました。

1945(昭和20)年10月
さつえい:米軍

小頭症(しょうとうしょう)

頭がとても小さいことから「小頭症(しょうとうしょう)」とよばれます。発育不足や知的しょう害などのしょうじょうが出ることもあります。

被爆(ひばく)者に、えんごの手

敗戦後しばらくの間、原爆(げんばく)についての研究やほう道がせいげんされたため、後障害(こうしょうがい)のことについて、一ぱんの人に知らされることもなく、ひばく者はえんごも受けられませんでした。1954(昭和29)年の第五福竜丸(だいごふくりゅうまる)の事件をきっかけに、ひばく者をえんごしようという動きが高まり、1956(昭和31)年、被爆(ひばく)者の健康管理としんだん治りょうにあたるせん門病院「広島原爆(げんばく)病院(げん広島赤十字・原爆(げんばく)病院)」ができました。よく年には原爆医療法(げんばくいりょうほう)がつくられて、被爆(ひばく)健康手帳を持つ人は、医りょう費の負たんが軽くなるなどの特別なえんごを受けられるようになりました。また、ひばく者のための養ごホームなども開せつされました。

広島原爆被爆者療養研究(げんばくひばくしゃりょうようけんきゅう)センター(神田山荘)の大浴場

1998(平成10)年12月
ていきょう:広島市

サダコの病床記録

サダコさんは白血病と知っていたのか?

サダコさんが白血病になったころ、まだ白血病をなおす治りょう法はありませんでした。病院の人たちも家族も、サダコさんに病名を知らせませんでしたが、サダコさんはひそかに血えきけんさの結果をかきとめていました。(正じょうな白血球の数は、1立方ミリメートルあたり約4000~8000こですが、白血病になると、一ぱん的には白血球の数がふえ、10万こをこえることもめずらしくないといわれます。)

サダコさんの病しょう記録


この記録は、サダコさんがなくなった直後、フトンの下から見つかりました。

きぞう:佐々木繁夫・雅弘
所ぞう:広島平和記念資料館

ふっこうする町

「平和」をテーマにした都市づくり

戦争が終わって10年。焼け野原だった広島は急速にふっこう(立ち直って発てんすること)しました。1949(昭和24)年に広島平和記念都市建せつ法がつくられ、人類し上はじめての原爆(げんばく)被爆(ひばく)地として、世界に平和をうったえていく役わりを受け持つことになり、それにそって、都市づくりが進められることになりました。急ごしらえのバラックが建っていたまちも、やがて生活が落ち着きをとりもどすにつれて、道路が広くなり、まちなみが次第にととのっていきました。

広島平和記念都市建設法

「広島平和記念都市建せつ法」は、「こうきゅうの平和をせい実に実げんしようとする理想のしょうちょう」として広島の都市づくりを進めようという法りつです。これによって、戦争中に軍が使っていた土地をただでゆずりうけたり、国のざいせい的な支えんを特別に受けることができるようになって、広島のふっこうは大きく進みました。

「広島平和記念都市建せつ法」の住民投票をよびかけるポスター

1949(昭和24)年7月
所ぞう:広島市公文書館

広島のふっこうを見よう

ひばく直後から1953(昭和28)年ごろまでのまちの変化をさつえいしたものです。

さつえい:岸本吉太
ていきょう:広島市公文書館

ばく心地近くに平和記念公園ができた。

ふっこう計画により、原爆(げんばく)ドームと川向こうの中島町一帯を平和をしょうちょうする公園にしようと決められ「平和記念公園」がつくられました。1952(昭和27)年8月6日、「原爆(げんばく)死ぼつ者いれいひ」がじょまくされ、1955(昭和30)年8月には「広島平和記念資料館」がオープン。原爆(げんばく)ドーム、原爆(げんばく)死ぼつ者いれいひ、広島平和記念資料館が南北一直線にならぶ公園のすがたが整ってきました。
また、平和記念資料館の南側には、はばが100メートルもある広い道路がつくられ、市民から名前をぼ集して「平和大通り」と名づけられました。

広島ふっこう大博らん会

1958(昭和33)年、原爆(げんばく)から立ち直った広島を見てもらおうと、「広島ふっこう大博らん会」が開かれ、広島平和記念資料館も会場になりました。

さつえい:大前静治
ていきょう:広島市公文書館